2014年4月28日月曜日

《音程至上主義》を その人差し指と薬指で/『本書執筆の動機』

本の宣伝ばかりですいません…

今回は後書きとして小堀君が書いてくれた、本書にたいする「批評」を掲載させていただきます。この本にどういった価値があるの?ということを、音楽が専門でない人にもわかりやすく書いてくれました。(本当にありがとう)

もう一本は私が本を書いた動機についてです。なぜ今この本を書く意義があったのか、というところを書きました。

どちらも音楽専門ではない人、トラックメーカーではない人、演奏家ではない人でも楽しめるように書かれています。読んでいただけると幸いです。





《音程至上主義》を
その人差し指と薬指で

Kbori Akira

:1989年生まれ、東京都出身。最後の昭和生まれ、最初の平成生まれ。CultureMilkオーガナイザー。

 本書は、NERALT氏による「フィンガードラム」の指南書であり、かつ「グルーブ=グルーヴ」について誠実に向き合った第1歩でもあります。フィンガードラムの演奏法については、すでに本書に書かれている通りです。私も机をパッド代わりに、とりあえずパラディドルを練習してみました(そして指を痛めました。NERALT氏はフィンガードラムの危険性についても書くべきでした。アメリカなら訴訟モノです)。そして、えー、こんなマニアックな本をEPUBで読んでいる皆様、ひいては紙本として購入してまでフィンガードラムを極めたいと思っている皆様にとっては、これから書くことは遠い国の世界のお話に聞こえるかもしれません。」

 『関ジャニの仕分け∞(エイト)』という番組をご存知でしょうか。大人に見えるけど本当は12歳だったりする娘を関ジャニのみんなが仕分けしていた番組なのですが、今は企画が変わりました。何に変わったかと言うと、「カラオケ得点対決」でして、最新のカラオケ機材に搭載されている採点システムを使って、プロと素人あるいは小学生(プロデューサーはロリコンかもしれませんね)が対決するのです。よろしければ、人差し指と薬指をキーボードに移し、「仕分け カラオケ」と動画の検索でもしてみてください。面白いのは、この「採点」の基準で、ザックリ言うと「音程が合っているか?」が基礎点となります。これに「こぶし」「しゃくり」「ビブラート」「フォール」の4種類の技術による加点があるのですが、これらの技術はどれも「音程の(時間的な)変化」です。一方で、タメは減点されてしまうので、決められたリズムを外れることは許せません。気持ちを入れたり、あるいは気を抜いたりして歌うと、どんどん点数が減るわけですね。

 上からわかるように、カラオケの採点システムにおいては、上手さを決めるのは音程であり、とんでもない飛躍を許していただけるなら、日本は《音程至上主義》の国なのです。何かを重視することは、何かを軽視することです。「音程」を重視することで、軽視されるものが何であるかは、皆様もお気づきでしょう。私は、この「音程高リズム安」の状況を、日本人のリズム感に対するコンプレックスが生んだものだと考えています。ここで大切なのは、日本人にリズム感があるかないか、ではありません。一度でいいから、スナックでご老人のカラオケを聞いてご覧なさい。皆様はジョークでもラップの真似事ができて、しりとり侍で遊んだりできるでしょう。というか、この本を理解できる時点で、リズム感が「無い」なんてことはないのです。

 それでもわたしたちが「リズム感=グルーブ」に対して躊躇してしまうのは、NERALT氏の言葉を借りれば、グルーブが「マジックワード」であり、「検証不可能」な話ばかりが語られるからです。繰り返しになりますが、本書の素晴らしい点は、そんなある種「言ったモン勝ち」の世界で、グルーヴを思い切って捨象し、提示したところにあります。「ビートの初歩の初歩」から始めることがどれだけ大切か。STAP細胞が巷を賑わす2014年では、ちょっと考えればよくわかることです。

 NERALT氏は今後、グルーブについての研究をより深めていくでしょう。次の研究報告が理解できるよう、知行合一、わたしたちもパッドを叩きましょう(机は叩かないように)。



『本書執筆の動機』

NERALT

 音楽における「リズム」=「ビート」の重要性は、日を追うごとに増していき、現代のポップミュージックにとってなくてはならない存在となりました。しかし、コードやスケールといった伝統的な音楽語法にくらべると、まだまだ「ビート」は言語化/体系化されていないといえるでしょう。(もちろんドラムに関する素晴らしい教則本はたくさんあり多くを学ぶことができます。しかしコードやスケールに関する本に比べると具体性が高く、ビート全体に関する考察は少ないように感じます。)さらに「ビート」は言語化されていない、もしくは言語化することが難しいために、もはや「魔法」もしくは「壮大な叙事詩」のような語られかたをされてしまっているようにもおもわれます。

 「ビート」は音楽に関わる人間がつくりだす叙事詩であり、『黒人』、『リズム感』、『グルーブ』といった「マジックワード」と共に人々の口にあがり、誇張され付け足され、いくつものストーリーが生まれています。合流したり枝分かれしながら「ビート」という壮大な物語が紡がれているのです。もちろんこれは悪いことではありません。このストーリーの豊かさ、壮大さは、如何に人類が「ビート」に恋い焦がれているか、「ビート」を求めているか、ということの表れのようにもおもえるからです。

 一方で、こういった語り方が「ビート」の『正確な理解を妨げている』ともいえます。『マハーバーラタ』が決して正確な歴史記述によって綴られていないように(「月刊ムー」の熱心な読者の皆さん、ごめんなさい。)、『ビート叙事詩』を (バロウズやギンズバーグは関係ありませんよ)正確なビートに関する考察と考えることは非常に難しいでしょう。これはもはや叙事詩の構造上仕方がないことにおもわれるのです。

 では一体我々は、「リズム」=「ビート」にたいしてどのような『態度』を取るべきなのでしょうか。もちろん様々なやり方が考えられますが、本書では以下のような方針をとることとしました。

【リズム、グルーブ、ビート】に関する抽象的な議論を避け、【具体的/身体的な動作】を【明確な図】によって示すことで、結果的に【リズム、グルーブ、ビート】の正確な把握を読者に促す。

 つまり本書を読まれる方は、ひたすら図によって「右手をあげてください。左手をあげてください。」と具体的な動作を要求され続けます。少しだけ抽象的な議論もはさまれますが、これも身体動作を指示する「図」に関する議論ですから、究極的には本書は、「動作に関する問題」しか取り上げていないのです。徹底的に全ての考察を「具体的な動作」と関連づけることで、誰もが実際に行動することができます。そしてその「行動」が最終的に結果的に、「リズム=ビート=グルーブの理解」につながるよう、配慮したつもりです。(そして実際そうなっていることを願います…)

 ということで「リズム=ビート=グルーブ」を具体的で考察可能な対象として記述したい、というのが本書執筆の動機です。そしてある程度はできたかなあと思います。

こちらから購入できます。
http://bccks.jp/bcck/121096/info

おすすめは、リアル紙の文庫バージョンです。
クレジットカード決済しかありませんが、ご注文いただくと自宅にぶつが送られてくる仕組みになっています。
納期は大体一週間ほどです。

よろしくお願いします。

0 件のコメント:

コメントを投稿