2014年9月24日水曜日

ジャズ界で有名な用語「ドミナントモーション」は日本人しか使っていない

現在、音楽理論の電子書籍「Traditional Music Theory for Contemporary Musicians」を書いているのですが、正確な記述にするため様々な英語文献を参照するように心がけています。

ドミナントモーションの項目を書く際に、文献にあたったところ「ドミナントモーション」という表現を見つけることができませんでした。また、検索しても英語圏ではみつけることができません。

「ドミナントモーション」は恐らく日本でしか使われていません。私も音楽理論オタクとして小学生の頃からこの手の本を買っていますが、どの日本語の本にもドミナントモーションの項目は必ずあります。しかも序盤に。その「ドミナントモーション」が日本でしか使われていないとしたら、今まで自分が学んできたことは一体なんなのか、と途方にくれます。

さて、この「ドミナントモーション」という用語が日本でしか使われていないとしたら、最初に言い出したのは誰でしょう。

それは恐らく渡辺 貞夫さんです。サダオさんが書いたジャズスタディが、最初に流通した日本語によるジャズセオリーの本だと言われています。

ジャズスタディの本文2ページ目にさっそく、ドミナントモーションが出てきます。

dominant motion
dominant motion
この本は、日本にはじめてジャズに関するセオリーを伝えたという功績があります。ネベサダさんがいなければ、セオリーは広まっていなかったでしょう。

では、一体ドミナントモーションに対応する用語は、何が使われているのでしょうか。

一番使われているのは「Authentic cadence」です。これがⅤがⅠに解決されることをさす単語としては一番使われます。ほかには単に「resolution」という用語もよく見かけます。「motion」という表現はほとんどありません。

ドミナントモーションやアヴェイラブルノートスケールといった用語は、日本だけのものとはいえ、非常に便利なものではあります。欧米で使われていないからといって、そのまま間違えとは決して思いません。

しかし、私を含む後続の人間が国内の書籍のまた引きを繰り返してテキストを書くという怠慢をしてきた結果なのではないでしょうか。

「Traditional Music Theory for Contemporary Musicians」の詳細については、こちらのブログもご参照ください。11月に発売予定です。





2014年9月17日水曜日

メモ/コンセプト Traditional Music Theory for Contemporary Musians

Neralt 著「Traditional Music Theory for Contemporary Musician」は、現代の音楽家に対して、ジャズやソウルの演奏家といった過去の音楽家が持っていた、もしくは使用していた「伝統的な音楽の知識=音楽理論」を提供します。この伝統的な音楽的知識は、単に過去の知識ではなく、現在の音楽家にとっても価値のあるものであり、未来の創作につなげることができます。

伝統的な音楽理論の重要性は、2つの理由で現代で一層重要性が増しているといえます。

1)
現在の音楽制作はDAWに代表される「テクノロジー」に主導されるようになりましたが、リスナーがいまだメロディーやコードと行った古典的要素に強く惹かれるという事実を、認めないクリエイターはいないでしょう。この古典的技術は、時代遅れになるどころかむしろ、テクノロジーに長けたアーティストが増えるにつれて、一層重要になってきています。結局のところ、いくらテクノロジーが音楽を先導するからといっても、最後はメロディやコードといった要素がクリエイターの主要な関心であることは変わりません。伝統的な音楽技術を学ぶことで、転調やコードといた基礎的な問題に悩むことがなくなり、一層クリエイティブな問題に集中することができます。

2)
本書は現役で活躍するミュージシャンの要望に応えるために制作されたワークブックであるため、面白さや楽しさよりも、完全にマスターすることを主眼においています。
ただし、レベルは楽譜の読み書きが多少出来る、いくつかのコードが演奏できるレベルの読者を想定しています。

レコードが過去のものであるにもかかわらず、むしろの伝統性によってトレンドとなっているように、音楽理論の伝統性がむしろ逆説的に、現代的であるようにせねばならない。

2014年9月8日月曜日

書籍「Traditional Music Theory for Contemporary Musician」について

伝統的な音楽理論を、コンテンポラリーなミュージシャンに提供する書籍『Traditional Music Theory for Contemporary Musician』を現在執筆集で、11月出版予定です。本書に強い興味をもっていただけた方、また今後の改善にご協力いただける方は、ぜひご連絡をお願いいたします。


そのためのブログを立ち上げました。
http://musictheoryworkshopjapan.blogspot.jp/


Email:musictheoryneralt@gmail.com

新アカウント
twitter:@MusicTheoryNera


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Neralt 著「Traditional Music Theory for Contemporary Musician」は、現代の音楽家に対して、ジャズやソウルの演奏家といった過去の音楽家が持っていた、もしくは使用していた「伝統的な音楽の知識=音楽理論」を提供します。この伝統的な音楽的知識は、単に過去の知識ではなく、現在の音楽家にとっても価値のあるものであり、未来の創作につなげることができます。







音楽理論書籍のマーケティング/新コンテンツを市場に適応した形に修正する

今書いているNeralt二冊目の音楽理論書籍「Music Theory」は、コードやスケールといった基礎的な知識を初学者向けに提供するコンテンツですが、コンテンツとして一番致命的なのは、ユーザーが欲しくないものを作ってしまうことです。

音楽理論書籍でユーザーが欲しくない物とはつまり、「読んでもわからない」です。もしくは、「こんなことは、知りたくない」もあるでしょう。音楽理論はそもそもニッチな市場ですから、せめて待っている人の期待に応えなければいけません。

書籍は本質的に会話とは異なります。読者からの反応がわかりません。

つまり、会話であれば、ここがわからない、とかもっと説明が欲しいと言われれば、それを補足することができ、結果として相手の満足度は保たれます。もしくは、ユーザーに合わせて例や学習の対象をあらかじめ変更することも出来ます。

しかし、本は書いてリリースしてしまった後は、完全に一方通行になってしまいます。わからない人は読むのを辞めてしまいますし、なんか自分の学びたい内容と違うなあ、という人も辞めてしまうでしょう。

そして何よりも、このようなニーズに応えることのできない商品は売れません。

様々なマーケティング手法がありますが、まず何よりもコンテンツが顧客のニーズに応えていること、コンテンツが顧客の課題を解決できるものであることが大事でしょう。コンテンツが優良であってはじめて、それを広めるマーケティングが有効に作用するでしょう。

と、考えていたところ、そもそもユーザーのニーズってどこなの?そして自分のコンテンツがそれに応えられているのかなあ、という課題をどうやってクリアーするかということが、ある程度書籍が完成するにしたがって顕著になってきました。

音楽理論自体は専門なので、いくらでも書き込むことはできるし、書くのは自分の問題なのでやればやったでけ進むので、本を完成させること自体は自分の根性でクリアーできます。

しかし、顧客との擦り合わせは、根性ではできぬ!ということで以下の本を買ってきました。

Running Lean ―実践リーンスタートアップ (THE LEAN SERIES)
http://www.amazon.co.jp/dp/4873115914



この本はまさに今の自分にベストな本で、新しいサービスや商品を、企業体ではないリソースの少ない個人が、如何に成功させるかをテーマにした実践的な一冊です。

この中で、僕が特に新しく気付いた点は以下の3つ
・アーリーアダプター(EA)が納得できるコンテンツをまずつくること。
・そして、その後にマジョリティに訴求できるコンテンツにしていくこと。
・アーリーアダプター(EA)には料金を払ってもらって、早めにコンテンツを公開。かつ、彼らと密に連絡をとって要求点改善点をもらい、コンテンツを修正していく。

この中でも強烈だったのは、まずアーリーアダプターに焦点を絞って、その人達が満足できるコンテンツをつくり、その人達に届けるためのコンセプトラインを示すこと。こうすることで、少なくともその人達が買うに値するコンテンツにはなる、と。

最初からマジョリティーに向けたピントのずれた戦略は、誰一人欲しくない可能性がある、と。まずは強い興味を持ってくれる人にフィットするものを作るのが大事だと。結果的にそれがその商品の独自価値になる、と。

なるほどなあ。なんとなく作曲をする人に向けて書くと、既存の大手出版社から出ている音楽理論の本と大差なくなってしまうし、買う方だって大手の本を買うと考えるでしょう。

そうではなくて、例えば僕が本を書いていると宣言したときにすぐに食いついてくれて意見をくれる方たちの方をしっかり向いて修正していく、という作業をすればより独自価値のあるコンテンツになるし、そのことが一番マーケティング上重要だ、ということですね。

僕のコンテンツに食いついてくれてる人は、大きく分けるとまず2つ
・DJやレコードコレクターなど、強烈な音楽マニア
・作曲か演奏をする人間、かつ初心者じゃなくて、既に曲を作ったりライブハウスで演奏しているようなセミプロの人

ということを考えると、幅広い音楽の初心者向けの必要はないのだろうな、と。強烈な音楽マニアの人達は、楽理には詳しくなくても、音楽はめちゃくちゃ詳しい。マイルスのカインドオブブルーのサウンドといえば、説明無くてもわかるし、AORのリズムがっていっても通じる。既に演奏や作曲している人も、自分なりのやり方を既に持ってるわけですよね。

だから、もちろん誰が読んでもわかるように用語の説明とかするけど、何も知らない音楽の初心者に向けて僕が書くのは、独自価値の創出という意味でもあまりないのかなあ、と。

演奏家にせよリスナーにせよ、強烈な音楽マニアに向けて書くのがベストなのではないか、と。実際反応があるのはそういう人達だし、前作が知り合いを超えて大きく売れたのも、フィンガードラミングが音楽に詳しい人がたくさんいるHIP HOPカルチャーに訴求できたからのような気もしているし。

このような様々の課題をクリアーするために、ランディングページを作成して、このブログを読んでくれるようなアーリーアアプターの皆さんに先行販売、かつ色々意見をいただいて、皆さんの課題を解決できるようなコンテンツにしていきたいと思っています。ご協力よろしくお願いします。

また、皆さんがどんな課題をクリアーしたいのかを明確に私が把握するために、有料になりますが、具体的な楽曲(自作曲でも有名な曲でも)を分析して、その上でどんなコードやメロディやスケールを演奏すれば良いかのレッスンもやりたいなと思っています。音楽理論の本を買ってくれるかもしれない人は、その人それぞれの課題があるわけで、それをクリアーできるのであればこの本を買う価値があるし、ないのであれば、そもそも宣伝しても買うべきではない本ということになってしまので、まずは課題がなんなのかを私がつかむこと、次にそれを解決する内容をコンテンツに盛り込むことが必要ですよね。

ということで今後ともよろしくお願いします。残り半分書くぞー。















2014年9月2日火曜日

日記/創作に必要な自閉的意識

最近、人と会ったり、会話する機会が多かった。
こうすると、自分の意識が外に向き、内的な作業、つまり何かを書くとか、練習するとか、読書するといったことが難しくなる。

はっきりいってこういう作業は、そこまで刺激的ではないし、劇的な変化も引き起こさない。どこかにいったり、新しい人と会ったり、何かを買ったり、ということに比べれば、非常に退屈な遊びだといえる。

だから、内的な作業をするためには、一度外へ向かった意識を内側に戻してやる必要がある、と今日気付いた。そのために適切な方法が何かはわからないけれど。

一つの解決策として、単に内的な作業をひたすらする、という方法が考えられる。あたりまえだけど。鍵盤に向かってひたすらボイシングを確認するとか、Drop 2 をひたすら練習するとか、こうやってくだらない文を書くとか。

こういった行為は結局のところ誰も肩代わりしてくれないし、できない。内容がどうであれ、自分がやらないと絶対に進まない行為である。その時に人は内的になると思う。周りの何かに流されてできるものではないからだ。

もう一つの方法は、自転車で街を走るとか。一人で紀伊国屋に行くのも、バルトナインにいくのもいい。一人で街を走っていると、こんなに新宿に人が沢山いるのに、誰も自分のことを気にかけていないし、知っている人もいない。そして歩いている人とは速度が違うから、接点も持てない。すれ違い続けることができる。本質的に一人になることができる。インターネットは本質的な孤独ではない。むしろ、インターネットの中では、街よりも他人との交流は盛んだ。知らない人と会話することも多い。本当に孤独なのは喧噪の中なのではないか。

一人で映画館にいくのも同じ効果がある。同じ映像を、同じ空間でみんなで見ているが、お互いに同じ話をみているが、お互いに話すことは無いだろう。そして同席している他人は、より本質的な他人になる。そして他人はむしろ、自分の内的な意識のオブジェクトとなる。つまり、そこにいるのは自分の心象風景の登場人物になる。

こうなってくると、物を書くのがやり易くなる。物を書くというのは、基本的にこの世界の事実を書くのではない。自分というと閉じた世界に、多少開いている窓から入ってくる限定的な光を描く。ピンホールカメラに空けられた針先と同じ大きさの穴から、漏れてくる光を写し取る感覚に近い。結局のところ世界だと思っている物は、自分の非常に狭い視野から入ってきて、自分なかで結ばれる虚像でしかない。

ということでしばらくまた、文を書いて、休憩時間に文を書く生活を再会します。