2014年9月2日火曜日

日記/創作に必要な自閉的意識

最近、人と会ったり、会話する機会が多かった。
こうすると、自分の意識が外に向き、内的な作業、つまり何かを書くとか、練習するとか、読書するといったことが難しくなる。

はっきりいってこういう作業は、そこまで刺激的ではないし、劇的な変化も引き起こさない。どこかにいったり、新しい人と会ったり、何かを買ったり、ということに比べれば、非常に退屈な遊びだといえる。

だから、内的な作業をするためには、一度外へ向かった意識を内側に戻してやる必要がある、と今日気付いた。そのために適切な方法が何かはわからないけれど。

一つの解決策として、単に内的な作業をひたすらする、という方法が考えられる。あたりまえだけど。鍵盤に向かってひたすらボイシングを確認するとか、Drop 2 をひたすら練習するとか、こうやってくだらない文を書くとか。

こういった行為は結局のところ誰も肩代わりしてくれないし、できない。内容がどうであれ、自分がやらないと絶対に進まない行為である。その時に人は内的になると思う。周りの何かに流されてできるものではないからだ。

もう一つの方法は、自転車で街を走るとか。一人で紀伊国屋に行くのも、バルトナインにいくのもいい。一人で街を走っていると、こんなに新宿に人が沢山いるのに、誰も自分のことを気にかけていないし、知っている人もいない。そして歩いている人とは速度が違うから、接点も持てない。すれ違い続けることができる。本質的に一人になることができる。インターネットは本質的な孤独ではない。むしろ、インターネットの中では、街よりも他人との交流は盛んだ。知らない人と会話することも多い。本当に孤独なのは喧噪の中なのではないか。

一人で映画館にいくのも同じ効果がある。同じ映像を、同じ空間でみんなで見ているが、お互いに同じ話をみているが、お互いに話すことは無いだろう。そして同席している他人は、より本質的な他人になる。そして他人はむしろ、自分の内的な意識のオブジェクトとなる。つまり、そこにいるのは自分の心象風景の登場人物になる。

こうなってくると、物を書くのがやり易くなる。物を書くというのは、基本的にこの世界の事実を書くのではない。自分というと閉じた世界に、多少開いている窓から入ってくる限定的な光を描く。ピンホールカメラに空けられた針先と同じ大きさの穴から、漏れてくる光を写し取る感覚に近い。結局のところ世界だと思っている物は、自分の非常に狭い視野から入ってきて、自分なかで結ばれる虚像でしかない。

ということでしばらくまた、文を書いて、休憩時間に文を書く生活を再会します。


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