しかし、誰もが中二病に感染する。
そして、未だ治療の途中の方もいらっしゃることと思う。
世界は中二病患者で溢れている。
といっても私だって、他人事ではない。
我々のような芸術家、思想家、哲学家は、一般の人から見れば全部中二病患者だ。
有名な芸術家、思想家以外は全て中二病に見えるはずである。
言説で区別はつかない。
すごい作品を作っている人、有名な人、作品が美術館にある人。
そういう人だけが、中二病患者から外してもらうことができる。
そうでない人は、全部中二病にいれられてしまうことだろう。
しかし、それだと自分の立場が危ういので、自分が中二病患者ではない、ということを証明したいと思う。
なんてことだ。
なんてことだ。
中二病罹患者とそうでない人間を区別するガイドラインが、皆様の、ひいては自分の、治療の一助となれば幸いである。
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中二病患者の三つの条件
中二病患者の条件として、以下の3点をあげる。
これは偶然にも、だめな論文を書くやつにも共通する要素である。
(耳が痛い!!!)
(1)テーマがでかすぎる
(2)古典的知識が不足している
(3)創作しない
(1)テーマがでかすぎる
中二病患者の思考テーマは往々にしてでかすぎる。
「愛とはなんなんだろう。」、「本当の芸術ってどういうものだろうか。」
でかい。
でかすぎる。
でかすぎる。
このようなでかい問題と格闘するには、かなりの知識が必要である。
これは「(2)古典的知識の不足」にもつながっていくが、古典的な知識もなしに、このような大きな問題を考えようとすると、問題の大きさに比べて、あまりに小さな事例で戦うことになるか、もしくは問題よりもさらに大きな問題を引き連れてくる。
例えば、「ーさんの作品は本当に芸術と呼ぶにふさわしいと思う。魂が揺さぶられる。こんな音楽聞いたことがない。」というような言説。
「魂が揺さぶられる。」
魂とはいったい何か?芸術というテーマよりも、さらに大きい「魂」というテーマを引き連れてきてしまった。魂がゆさぶられるというのはどういうことなのか説明できない限り、意味がない。
「こんな音楽聞いたことがない。」
これはあまりに小さな事例を使ってしまった例。
聞いたことがないのは、あんただけ。
自分という、とても小さな物差しで説明を試みてしまっている。
(2)古典的知識が不足している
ここでも芸術論を例に挙げるが、芸術に関する主要な議論を知らないまま、芸術に関して論じようと思うと、(1)のように、あまりにも個人的な事例を使わなくてはならず、結果として、テーマと考察のスケール感に剥離が生まれる。
これこそが中二病患者特有の「痛さ」の本質ではないだろうか。
また、古典的な議論を知らないと、当然、既に議論しつくされた答えをだしても気づかない。
その議論200年前にされたわ、という脱力感。
これも中二病患者特有のものではないだろうか。
例えば、「絵画は一枚しかないから価値ある芸術だと思うけど、写真は複製できるから違うと思う」という人は、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」を読んでいない。
「便器が置いてあって芸術とかいって、なんか色々へ理屈こねてる人がいたけど、便器なんてうちにもあるじゃん。あんなのはアートじゃない。」という人は、ダダイズムを知らない。
(3)創作しない
テーマがでかすぎて、しかもそれと格闘する知識や技術がないので、当然、創作物がない。
「芸術ってなんだろう」そんなことばかり考えて一日が終わる。
以上。
まとめ
書いてて心が痛みました。
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