2013年2月2日土曜日
アンサーソングー音楽について書くについて書く
朋友クスナガ氏が正月に餅を食いながら書いた記事に、アンサーソングを書こうと思っているうちに1月が終わってしまった。
「我々は沈黙せねばならない。語り得ぬものに関しては。」で有名なヴィトゲンシュタインの著作「論理哲学論考」を文字ったブログ「音楽哲学論考」で彼は思考を書き続ける。
私は、そのブログを通じて彼に出会い、Music Theory Workshop Japanで音楽について現象学的な態度を援用した発表をしてもらったり、イベントに遊びにきてもらったりしていた。
音楽と哲学。この二つに彼は長けている訳だが(実際本人はただの哲学人ではなく、演奏、作曲、DJなどを高いレベルで行うことができる)、そういう人間は現実的にはかなり少ない。
哲学に詳しいが、聴く音楽はandymori。
音楽には詳しいが、文字を書かせたらトンデモを書きやがる。
そんなやつで世界は満たされている。
同年代で、哲学を援用しつつ、音楽について、たんなる評説ではなく、実際と結びつきながら話ができる希有な存在は、ある事情でなかなかライトには話せる状況ではなくなってしまった。(いや現代社会では、実際にそんなことはないのだが、心情として)
そこで、未完成のアンサーソングを書き上げ、彼に送りたいと思う。
ブログ『音楽哲学論考』ー記事:「音楽について「書く」ということ」
http://blog.livedoor.jp/yz_xnaga/archives/21884962.html
『とにかく、あらゆる音楽に関する言語による記述は、それがその人の音楽との関係を忠実に再現しようとする行為である限り、全て真です。それが楽理的な説明であろうが、詩的な感想文だろうが、「ヤヴァかった」だろうが、全て真であり、そして全て等価値です。』
同意見。
楽譜もエッセーもライブレポートも、等しく真なのだ、と彼はいっています。
同時にこの考えは、ある事実を浮き彫りにしています。
むしろ、その浮き上がってきた重大な事実の、裏返しでしかないのではないでしょうか。
重大な事実とはつまり、
『音楽そのものを記述することはできない』ということです。
音楽そのものを記述することはできない、と私は考えています。当然ですが、言葉と音楽では媒体が異なります。媒体が異なれば、対象を再現することは非常に困難です。
音楽を空気の振動と捉えた場合に、これを再現する最適な媒体は空気の振動であり、空気の振動を作り出す装置、装置の振動を制御する情報が必要になります。
これはつまりスピーカーとCDですね。
完全な再現とは言えないものの、音楽を空気の振動と捉えた場合には、かなり精度の高い再現性を持ち得ます。
この再現性に比べたら、ロッキンオンのミュージックレビューもジャズ親父の薀蓄も、何ら音響的な再現性がないという点で、『等しく』無価値です!
そういう意味において、『全て等価値』なのではないでしょうか?
あれれ、最初に私は氏の意見に賛同するといったのに、真逆なことをいっているような形になってしまいました。
氏は『全て等価値』とはいっているものの、全て等しく『無価値』だとはいっていませんね。全て真だといっている。
これでは全くの反対だ!
『綺麗は汚い、汚いは綺麗』
マクベスの魔女に倣って、こういうことにしましょう。
『すべて価値があるということは、すべて全くの無価値だ』
すべてが等しいなんて世界では、すべてが無価値な世界だと、と私は考えます。
差異が意味を作り出し、意味が言葉を作り出す。
何もかもがフラットな世界では、すべてが同じであり、差異ががなく、名前がついていません。
こんなことをいうとソシュールかぶれだ、とまたいわれてしまうかもしれませんが。
すべてが同価値であるということは、すべてが意味がないということとおなじではないでしょうか。
彼の言いたいことは、おそらくそういうことなのではないでしょうか。
音楽について書かれたものはすべて価値がある、と彼はいいたいわけではないのではないでしょうか。
おそらく彼は、音楽について書かれたものの中で、意味のあるものと、意味のないものがあるという姿勢に、歯向かっているのです。
意味があるものを認めるということは、意味のないものを認めるということです。そんなの書いても無駄だよ、とある種の文に言ってしまうことです。
文に意味がないということは、その人の考えにも意味がないということでもあります。
特権的に意味のある文章があることに、彼は歯向かっているのだと思います。
ここからは件の記事からは外れてしまいますが、思うところを述べます。
意味のあるものと、意味のないものを分けること。これは怖いことでもあります。
意味を与える人は、一部の特権層に限られています。
一般的にはメディアの人ですよね。雑誌、テレビ、文化人、などなど。
今は現実的はそういえるでしょう。
そういう人以外の発言なんて、今は正直意味のない情報となっています。
もっといえば、情報にすらなっていないものもたくさんあります。
僕の実家周辺の飲食店は、タベログにのっていません。
情報としては存在していないのです。
地方で生きる人たちの思いや生活は当然情報にはなりません。
生きるということが生きるという形のまま、そこにあるだけです。
意味のない情報、情報にすら鳴らない情報。
こういったものが、生の本質なのではないでしょうか。
CD、本、記事、だけを対象にする文化人。
それだけで日本を論じようとする言論の人。
私はそういった人たちを軽率します。
それは日本ではなく、人ではなく、生ではなく、文化人という狭いコミュニティの内輪話でしかない。
インテリはすべての人間の指針とならなくてはならない、文字と文化という狭い中だけで生きていてはいけないのです。
全ての本当の生と向かい合わなければいけないのです。
現代が取り上げる意味。それはもはや、一部の誰かにとっての、もっといえばメディアと都会の人間の意味でしかない。そんなものに意味はない。
本当に生と向き合うこと、それが今後の私の課題です。
以上。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿