大学生四人がボランティア活動をしていた。素晴らしい。
ボランティアの精神は素晴らしいが、垂れ幕を四人で持って掛け声をかける、という仕事は、小学生と比べても遜色のない効率性であって、何か他の方法はないのかと思ってしまった。
私の考えでは、募金のように貨幣を得るタイプのボランティアは効果が低い。
なぜならば、効果を最大に、つまり、得る貨幣の量を最大にしようとすると、それは商業活動になってしまうからだ。
利益が最大になるような経済活動をし、その中から一部を寄付する。
この方法が一番多額の寄付をすることができるであろうが、これは一般人が行うよりも企業が行う方が当然効果は高い。
一個人が取り組むボランティアとしては、金銭を集めるのは、効果が薄いと言える。
こう考えると、募金は、ボランティア精神に反するとは思わないが、ボランティア特有の効果を教授していないように思われる。
ではどのようなものが個人で行うボランティアとして効果が高いのか?
私の考えでは、それは、誰にもできるし喜んでもらえるが、実際それをお金を払って外部に委託しようとするとかなり高額になるもの、ではないだろうか。
例えば地元コミュニティーの子供向けイベントの運営。
お祭りや運動会といったものだ。子供はとても楽しみにしている。
外部に委託したらコストが無尽蔵にかかるこういったイベントを、ボランティアのスタッフが可能にする。
そういう意味で、地域のイベントへのコミットは、かなり効果が高いといえる。
それから、地域の人に楽器を教えて楽団を組む、なんてのも効果が高いのではないか。
私はそうしてドラムやトランペットの基本的なスキルを身につけた。
彼らがいなければ、音楽理論家としてのneraltは存在していなかったと言える。
多くのジャズメンのスタートもこうした地域の楽団から始まっていることが多い。
彼らは、キャリアのかなり早い段階、ジュニアハイスクールからハイスクールの間に、高校や地域のビックバンドに所属し、地元のレギュラーの音楽家ではないが非常に経験豊富な音楽家に、指導を受ける。みんなでカンパしてプロの音楽家が指導することもあっただろう。
そうしたボランティアと善意と楽しみのために作られた団体が、アート全体の底上げになっていることはあまり知られていないように思われる。
文化資本のほとんどない田舎では、こうした活動を誰かがやってくれなければ、そこには何もないのである。
文化資本のない田舎で育った私としては、そういった活動にとても感謝している。
私が公共性についてとても興味があるのは、このようなバックグラウンドがあるからである。
図書館、公民館、地元の団体、そういったものを支えてくれている人たちをリスペクト。
それに比べて意識の高い学生たちのボランティア活動は効果が薄いと言わざるを得ない。
特にアジアへ行ってのボランティア活動。
あれは単に、海外経験、社会貢献、という就活に必要な経歴をセットで取得する、本人にとってお得なだけのコースであるとしか思えない。
海外ボランティア。これに私が嫌気をさしているのは、自分の知る範囲でこの活動に従事する人間がすべからく、嫌気がさす人間だからという非合理的な理由が大きい。
また、内容を聞く限り、それはその国以外の人間が関わっては行けない問題なのではないか?というものも多い。
国内で役に立たない人間が、発展途上国で大手を振って先進国の論理をおしつける。
これは大植民地時代によく見られた滑稽な光景である。
海外ボランティアに代表される、周りに誇示するためのボランティア。
アクセサリーとしてのボランティア。
そのためには、「国際的」、「海外」、「世界」、「社会貢献」、「NPO」、「貧困」、「環境問題」、「格差」など、仰々しいワードが並ぶ必要がある。
こういったワードがついていなければ、彼らはボランティアをする意味を失ってしまうだろう。
このようなゴテゴテしたアクセサリーとしてのボランティアに比べて、地域貢献タイプのボランティアは、その実際的な効果に比べて、軽く見積もられがちである。
「お祭り手伝っただけでしょ?子供に本を読聞かせているだけじゃない?」
でも、もう一度考え直していただきたい。
ボランティアは、誰かに見せるためのものではない。
もっと実際的に効果のある活動を、評価するようにしよう。
メディアの時代。
ここでは取り上げられることが全てである。
目立つことが全てである。
そういった中では、地味な活動は取り上げられないから、どうしても目立つものだけが増えていく。
それはいいことだろうか?
ボランティア。この言葉は諸刃の刃である。
ボランティアの名の下に、例え効果が薄くても、行為そのものが正当化されてしまう。
また、そういった巷のボランティアに嫌気をさして、ボランティアには一切参加しない、とへそを曲げてしまう人もいる。
でもボランティアは、本当に意味のあることだと思う。
他人に誇るためのアイテムとしてではなく、身近な人達のためへの献身でありさえすれば、もっともっと歓迎されるべきである。
日本がもっとよい国になりますように。
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