2013年2月9日土曜日

Dopeとは/ストリートカルチャーの特徴/シュタイナー「残された黒板絵」@東党堂

(東塔堂の外観)


渋谷駅を降りて、線路沿いに代官山Airに向かう。セブンイレブンが見える。
その脇の坂を上っていくと、ひっそりと「東塔堂」が佇んでいる。
http://totodo.jp/

こんなにもひっそりと身を潜めているから、全く今まで気がつかなかった。
代官山Airには何度となく通っているからいつもこのあたりは通るのに、と思ったけどそれはそうだ。
この辺りにはいつも深夜にくる。いつでも店は閉まった後だ。

眠らない街東京の、みんなが眠った後、お洒落タウンにのそのそと出てくるパートタイムシティボーイの僕には、本当にドープな場所を見つけることはとても嬉しい。
一通り派手なところで遊び尽くすと、もうなにも面白いものはないのかな、って寂しくなるけど、そんな心配をする必要はない。
まだまだドープな遊びは残っている。


ドープという表現は、のめり込んでものめり込んでもまだ何かがあるような、あの深い感覚のことを指す。
もともとはあまりいい意味ではなかったようだが、ストリートカルチャーに特徴的な現象で、否定語がそのうち最高の褒め言葉になってしまうという、捻じれによって生まれた表現だ。

「きれいはきたない。きたないはきれい」
―3人の魔女の言葉 マクベス『シェイクスピア』より―
(シェイクスピア『マクベス』より、三人の魔女に遭遇するマクベス) 


マクベスの魔女の呪文ともとれるこの言葉。
とても好きなので何度でも引用しよう。

いつでも物事は表裏一体なんだ、なんていう薄っぺらい表現はやめにしよう。
清濁飲み込む、これも貧乏臭いからやめておこう。

「きれいはきたない。きたないはきれい。」と呪文のようにつぶやくとき、確かにそうだな、と謎の納得感がだけがこみ上げる。

ただそれだけ。


いつだってストリートカルチャーは、誰かが捨てたものを再利用する。
汚い言葉は誰も使わなくなる。捨てられる。
そして汚い言葉は、奇麗な言葉になる。

捨てられて誰も使わない言葉は、使ってしまえば自分たちのものになる。
空き地を占拠する少年のように、自分たちだけのルールを持ちこんでしまおう。

ストリートカルチャーは、捨てられた言葉に自分たちのだけの意味を与えてしまう。





TR909は、1983~1984年に生産されたがすぐに誰も使わなくなった「役立たず」のリズムマシーンだった。
しかし、デトロイトかシカゴのビートメイカーが再発見し使い始めた。
そうして、ハウスとテクノは始まる。


(TRー909を演奏するJeff Mills)


ドイツの名門クラブ『Tresor』は廃墟だった。
潰れた銀行の金庫室だ。
http://amass.jp/1961


(旧トレゾア。もともとは銀行の金庫だった。トレゾアとはドイツ語で金庫という意味)


いつだってストリートカルチャーは、誰も使わなくなったものを再利用する。
そして自分たちだけのものにしてしまう。

まあ、そのうち流行ってきたら、メインストリームの人たちにかすめ取られるんだけど。

それにしてもDopeって言葉は的確な発音を持っているなと思う。
どこまでも深い感じを表すのために、この言葉ほど合う響きはない。

多分それは、この発音そのものが深いからなんじゃないかなと思う。


Dopeに含まれる「o」の音も「u」の音も、喉の深い部分を使う。
舌の位置も後ろのほうだ。
「Back Vowels」と呼ばれている。
やはり発音自体がドープなんだ、と僕は思っている。
本当のところは知らないけど。

実際に発音してみてほしい。喉の奥の方が低い音と共鳴する。
深い響きがする。体全体に伝わるような。

ticとかpackを発音してみてほしい。なんだか軽い感じがする。
チックなんて音で、深いって意味にはならないだろう?
ドープは音がドープなんだ。


(舌の動きを解説したサイト。音も聞けるし、動きも動画で確認できる)


シュタイナーを知ってる?
シュタイナーはとてもdopeだ。
そしてシュタイナーの著作が置いてある東塔堂も、ドープってことになる。

「シュタイナー残された黒板絵」をかなり永い間探していた。
絶版になって15年経つ。

一度絶版になった書籍はそう簡単に手に入らない。
レコードもそう。意外と手に入らないものって現代にもたくさんある。

それがある場所って楽しいよね。


(シュタイナーの黒板絵。下のURLは展覧会の特設ページ)

(東塔堂の内部)


シュタイナー遺された黒板絵は、シュタイナーの思考を図で表現したものだ。
彼の考えていることは正直よくわからないが、それでもこの図を眺めていると何かすごいものにふれているような気になってくる。
少なくとも高校生の僕は、図形を通して伝わってくる彼の思考に衝撃を受けた。

まずシュタイナーの思考図形は、図そのものが美しい。
美しいということには、それ自体に力があると僕は思う。
(奇麗なだけのクソビッチのことは、一旦置いておこう)
構造自体が語りかけてくる。

数学者の中には、数式をみたときに計算や論理で判断する前に、美しいかどうかで真偽を判断するものがいるという。
美しくないと感じる数式には、なんらかの論理的欠点があるのだという。
考える前に、考えた後のことが、美的感覚によって判断される。
そういうことは、ありえると僕は思う。

シュタイナーの黒板絵は、理解よりも前に、思考を直接伝えてくる。
むしろ図形が思考であるともいえる。
という体系は、基本的に哲学の世界ではほとんどない。
文字以外の方法で思考を進める、ということ自体が僕にとっては衝撃だった。

図形を通して、思考が、色や形とつながる。
そして色や形が自然科学と結びつく。
それは科学から見ればオカルトであるかもしれないが、アートの文脈から考えた場合、かなり魅力的である。
思考や概念は自由に拡張されるべきである。

元来、思考とはそういうものであったはずだ。
科学と非科学の線引きは、簡単にできるものではない。
科学の教会への勝利と考えられがちな、コペルニクスの地動説は、ネオプラトニズムに影響を受けた、バリッバリの宗教的情熱の産物である。

コペルニクスはなぜ地動説を唱えたのか
http://www.systemicsblog.com/ja/2012/copernican_revolution/

以下引用
コペルニクスが、当時支配的だったプトレマイオスの天動説に反して地動説を主張したことは、宗教的迷信に対する科学の勝利と呼べるものではなかった。コペルニクスのモデルはプトレマイオスのモデルよりも正確でもなければ単純でもなかった。それにもかかわらず、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱え、かつそれに魅了される天文学者が少なからずいたのは、当時太陽崇拝のネオプラトニズムが流行していたからであり、そしてそれは当時が近代小氷期と呼ばれる寒冷期であったことと関係がある。

科学があまりに感性をはぎ取りすぎた、と私は感じている。
そしてそこに、新興宗教とかオカルトとかが入り込んだ。
そのせいでどんどん科学以外の感性の立場が危うくなってしまったように思う。

カルトでも科学でもない感性を、シュタイナーが取り戻してくれるのではないか。
哲学と芸術と科学の間を取り持ってくれるのが、シュタイナーであると感じている。








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